【哲学】一部の野球垢から「寛容のパラドックス」学ぶちゃ

こんなポストを見たがよ。

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サッカー嫌いな自治体民に配慮せんなんがけ?

Xを見ているとごく一部の野球関連のアカウントから「公共施設も営利企業が使うがなら採算を取らなければならない」という文言が広がっとるがやね。

まあ、昨日の記事にも書いたがやけど、営利企業なら採算を取らなければならん法的根拠はないしよぉ、そもそも営利企業やろうがそうやなかろうが、スタジアムの所有者は自治体であり、プロサッカークラブもアマチュアの団体も「利用者」であることには変わりないがいちゃ。

ただよぉ、なんか一部アカウントに「サッカー嫌いな自治体民がいるから採算取らないと」という発言をしとるもんがおったがやね。

今回はこういった発言の有効性があるのか触れておくちゃ。

嫌いを認めたら他人の嫌いも認めないといけなくなるちゃ

さて、嫌いなものを取り除いていく権利を認めていくとどういう世の中になるやろうか?

その一つの答えになるのがよぉ、オーストリアの哲学者カール・ポパーが1945年に発表した著書「開かれた社会とその敵」の注釈欄に語られた「寛容のパラドックス」にあるちゃ。

「寛容のパラドックス」については、あまり知られていない。無制限の寛容は確実に寛容の消失を導く。もし我々が不寛容な人々に対しても無制限の寛容を広げるならば、もし我々に不寛容の脅威から寛容な社会を守る覚悟ができていなければ、寛容な人々は滅ぼされ、その寛容も彼らとともに滅ぼされる。――この定式において、私は例えば、不寛容な思想から来る発言を常に抑制すべきだ、などと言うことをほのめかしているわけではない我々が理性的な議論でそれらに対抗できている限り、そして世論によってそれらをチェックすることが出来ている限りは、抑制することは確かに賢明ではないだろう。しかし、もし必要ならば、たとえ力によってでも、不寛容な人々を抑制する権利を我々は要求すべきだ。と言うのも、彼らは我々と同じ立場で理性的な議論を交わすつもりがなく、全ての議論を非難することから始めるということが容易に解るだろうからだ。彼らは理性的な議論を「欺瞞だ」として、自身の支持者が聞くことを禁止するかもしれないし、議論に鉄拳や拳銃で答えることを教えるかもしれない。ゆえに我々は主張しないといけない。寛容の名において、不寛容に寛容であらざる権利を。

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AF%9B%E5%AE%B9%E3%81%AE%E3%83%91%E3%83%A9%E3%83%89%E3%83%83%E3%82%AF%E3%82%B9

結論から言うと「寛容な社会を維持していくには、不寛容には不寛容でいなければならない」ということやちゃね。

一見矛盾した話になるがやけどよぉ、実際に不寛容を認めてしまうと、寛容な社会は壊されてしまって、最終的には寛容な社会が破壊されてしまうということやちゃ。寛容な社会を求めるあまり「だったら『嫌いなものを排除する権利』『見たくないものを排除する権利』を寛容になれよ」とかなってしまってよぉ、それを認めてしまうと、寛容さが失われてしまうわけやちゃ。

サッカー嫌いに配慮するなら野球嫌いも配慮しろの話に…

これをよぉ、冒頭の「サッカー嫌いな自治体民もいるから」という話を認めてしまうとよぉ、こんな感じの社会になってしまうやろう。

じゃあ、野球が嫌いな自治体民のことも聞けよ

自由で寛容なグループを作って「完全な自由にしましょう」ということにしといたら、そこに「人のものを盗む」「他人を暴力で言うことを聞かせる」という人が出てきたら、それは「寛容」「自由」の名目上、彼等の行動を制限することができなくなってしまうちゃね。

それに他の人も「嫌いだからなくせ」という言動も自由になってしまうがで、紛争状態になってしまって、結局は崩壊を招いてしまうのは考えられるやろう。暴力や窃盗、紛争が嫌になった人達は、そのグループから抜けざるを得なくなるか、残っていたとしても「寛容」を理由に我慢を強いられるのは考えられるちゃ。

そうなると「あいつの嫌いを認めるならオラの嫌いも認めろ」になってしまうがやから、そんなのを認めあったら、ディストピアになってしまうちゃ。多様性を認め合うはずの「寛容」が多様性を失ってしまうわけやちゃ。

ほんじゃからこそ「嫌いだからなくせ」みたいな不寛容には不寛容にならんなんがいちゃ。

スポーツの多様性を認めよう

Xでいろんなことを呟いとるオラやし、サッカー界隈に流れているデマを訂正するようなポストをよく書いてあるがやけど、根本的には他のアカウントのように「野球場は潰せ」とかそんなことを言うつもりはサラサラないちゃ。

そういった発言は、まさしく「不寛容」そのものであり、それを認めてしまうようになると、オラ以外の誰かの「潰してしまえ」も認めないといけなくなるがでよぉ、ディストピアを招くような発言は避けるべきかと考えるちゃ。

そこで大切にしておきたいことが一つあるちゃ。

「表現の自由」のトピックをよく読んでいるオラとして大切にしていることやけど、やはり「自分の嫌いも認める」というのを基本としとるちゃね。クリエイティブな部門になってくると、かなり自由なもんやし、エログロナンセンス、BLなどエグい表現があったりするもんやけど、自分が見なければいいや…という感じで、存在自体は認めるような考えは、やはり自分自身で守っていかんなんと感じるちゃ。

別に野球は嫌いとかなくて、富山サンダーバーズは何回も観に行っとるし、高校野球のシーズンは富山県代表の試合はよく見ているし、それにイチローや松井秀喜は結構好きやったし、野球に対して特別嫌悪感はないがやけど、オラに絡んでくるような一部の野球垢のように、相手の存在さえ認めないような態度を取るような方々とは相容れないと感じるもんやちゃ。

オラが「パビリオン付きの国際規格のクリケットグラウンドを公金で作って欲しい」と呟いたところで、ほとんどこれといって噛み付いてくるアカウントはおらんがやけど、これが「サッカースタジアムが欲しい」となると、なぜか噛み付いてくるアカウントはいるちゃね。そういったアカウントは、公金の使い道に日頃から厳格に見ているわけやなくて、単に「サッカーが嫌いだから排除しよう」というのが本音かと考えられるやろう。

オラとしてはクリケットをいかに日本で広めていけるのか、結構考えたりするもんやし、野球場や河川敷などでクリケットをやっとるインド系の方々を見ていると「プレーできる環境をどんどん作ってあげるべきやし、スポーツの多様性を認めていこう」と思うもんやちゃ。

そう考えたら、やはり「嫌いだから排除する」といった不寛容な言動については、不寛容でいるべきかと思うし、これはスポーツ以外のことでもよぉ、しっかりと自分を戒めていかないといけないと思うちゃ。


開かれた社会とその敵(第一巻) プラトンの呪縛(上) (岩波文庫 青N607-1) [ カール・ポパー ]

開かれた社会とその敵(第二巻) にせ予言者(上)-ヘーゲル,マルクスそして追随者 (岩波文庫 青N607-3) [ カール・ポパー ]
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