こんなツイート見たじゃ。
ヘソでカモミールティ沸かせるらしい
…とりあえず「臍でカモミールティを淹れる」ところを、自身のYoutubeチャンネルで早くアップして欲しい…ということは先に言っておくちゃ。
銅像を倒すのは表現の自由ながけ?
銅像を破壊するのを「表現の自由」とでもおっしゃっとるようやちゃ。
とりあえず結論とか出す前に、先に言葉の定義を照らし合わせて考えてみることにするちゃ。今回は「表現」と「自由」という2つの単語が使われとるしのう。
銅像を倒すのは表現ながけ?
表現
《名・ス他》心に思うこと、感ずることを、色・音・言語・所作などの形によって、表し出すこと。その、表した形。
まず、銅像を倒すことやけど、上記の「表現」の意味から取って考えたら、「心に思うこと、感ずることを、所作などの形によって、表し出し」ているがで、銅像を倒すこと自体は「表現」には違いないちゃ。
極端な話をしたら、「窃盗」「殺人」「戦争」も表現ということになるちゃ。
銅像を倒すのは自由ながけ?
自由
[名・形動]
1 自分の意のままに振る舞うことができること。また、そのさま。「自由な時間をもつ」「車を自由にあやつる」「自由の身」
2 勝手気ままなこと。わがまま。
3 《freedom》哲学で、消極的には他から強制・拘束・妨害などを受けないことをいい、積極的には自主的、主体的に自己自身の本性に従うことをいう。つまり、「…からの自由」と「…への自由」をさす。
4 法律の範囲内で許容される随意の行為。
これは複数の意味があるちゃね。根本的には「自分の意のままに振る舞うことができること」やちゃね。使い方としては様々で「自由な時間」「自由に使えるお金」「自由の身」などポジティブに使われるものもあれば、逆に「こいつ人の迷惑も考えないで自由にやりやがって」…みたいな使い方もあるのう。
ヘソでカモミールティを淹れる彼にとっては、どの自由を選んで言葉を選んだのか分からんがやけど、銅像を倒すことで「表現の自由」と絡めるとは、どういう意図を持ったがやろうか?
銅像を倒すのは表現でも自由にならんまい
ただ、4の「法律の範囲内で許容される随意の行為」に関しちゃ、さすがに「表現の自由」には入らないのは言うまでもないちゃね。
「破壊行為」「窃盗」「セクハラ」「殺人」に関しても、心に思うことや感じることから発生する所作である以上は、とりあえず「表現」になるわけやけど、それを「自由」として認めてしまったら、世の中はえらいことになるちゃ。
おそらくオラも含めて、銅像の破壊行為に関して、銅像を倒すことについて不快感を覚えている人にとっちゃ、辞典にある「法律の範囲内で許容される」ところを頭に入れている人が大半やないかと思うちゃ。
「破壊行為は表現の自由やない」と言う人は「表現」に関する考え方が若干ズレていると思ってしまうがいど、少なくとも「自由」に関しては「法律の範囲内で許容」というところを頭の中に抑えておられるとオラは思うちゃ。ヘソでカモミールティを淹れる人と、破壊行為を嫌がる人には、決定的にそこが差があるといえるやろう。
ヘソでカモミールティを淹れるだけやなくて、「自由」に関しても、辞典にある「法律の範囲内で許容される随意の行為」に関してはスルーを決め込むという、独特な解釈をされているみたいやちゃ。
ヘソでカモミールティを沸かす表現の自由
さて「ヘソでカモミールティを淹れる」とおっしゃった彼やけど、なぜそういうツイートされたのかオラには分からなかったのう。文脈からしてなぜ「ヘソでカモミールティを沸かす」が出てくるのか、本当に謎ながよ。
オラは「へそで茶をわかす」という諺なら知っているがいど。
「お茶」が「カモミールティ」に変わったところで、この諺が通用するものかどうかはオラには知らないし、全くもって理解もできんがやけど、Googleで探ったところで使用例も出てこなかったがで、通用するかどうかの結論も出さないでおくちゃ。
ただ、少なくとも「ヘソでカモミールティを淹れる」また「表現」ということなのは認めると同時に、法律の範囲内で何も抵触しとるわけでもないがで「自由」も守ることにするちゃ。
モナゲ(tipmona)ってなに?
そもそもMonacoinってなに?
コメント