「表現の自由戦士」という意味不明な言葉はツイッターで見ることがあるちゃね。
明確な定義がないちゃ
この「表現の自由戦士」という言葉、オラにもよく分からんがやね。
何でかと言ったら「誰も定義を説明しない」というところに尽きるからやろう。ほんじゃから、人によって意味の捉えようとかも、かなり多いなズレはあったりするがやね。それに自称する人もおりゃ、本人が「表現の自由戦士ではない」と否定しているにも関わらず、なぜか「表現の自由戦士」という括られることがあるがやねえ。
動画を見ててよぉ、暇空茜さんは明確に「僕は表現を守れなどと言ったことない」とゆっとんがやし、そもそも今回の行動を起こされたのも「自分の守りたいもの・好きなものを燃やすものと戦っている」のではなくてよぉ、そもそも「自分の好きな表現を守るつもりもないし、他の人がやればいい」とおっしゃっとるがやね。
まあ、人間は全知全能やないし、時間もカネも体力も限られているもんやから、そりゃ「好きなものを燃やすものが許せない」だけで行動を起こしている方が、むしろ納得できると思うちゃね。
オラはサッカー好きでカターレに熱意はあっても、他に情熱を燃やすわけやないしのう。
そう考えたら、ジャンルは違えど、オラも暇空さんも単に「好きなものを貶されるのが嫌」という感じに過ぎないやろう。
「自分が好きなものを燃やすものに対して行動を取る人」なんて、オラは「表現の自由戦士」などと言わないと思うがやけど、実際に使っている人達ちゃ、大して意味も考えずに使っとるやろうなーと思うちゃ。
Wikipediaも漠然としとるのう
Wikipediaにとりあえずまとめられてはいるがやけど、一番上に「この項目には中立性が担保されていないため、修正・推敲を広く求められている」と書いてあるがやね。
まあ、このWikipediaの内容でも、ちゃんと定義づけできてなくて、これを読んだところで「だから表現の自由戦士とはどういう意味ながけ?はっきりしとらんにか?」と思うんやないかのう。
こういうのを見ているとよぉ、Twitterで何の躊躇いもなく「表現の自由戦士」などという言葉を使ってしまっとる人ちゃ、自分自身できれいな日本語を使っていこうとする気がなんてサラサラない人ながかなーと感じざるを得ないところやちゃ。
定義づけしないと日本語同士でも通じなくなるちゃ
まあ、定義付けをロクにされてないがに、なんかよく分からんまま使っているとよぉ、コミュニケーションが円滑に行われなくなってしまってよぉ、まさに「日本語同士なのに日本語が通じていない」という謎現象が起きてしまうがいちゃね。
そう考えたらよぉ、あらゆる人々の間でコミュニケーションが円滑にしていくには、やはり一つの言葉を聞いたらよぉ、誰であっても同じ意味と捉えるようにしていかんなんがやね。
「共通認識」を持たせるには、やはり「定義づけ」が必要ながいちゃ。
先日、オラが「フェミニズムの意味を調べもせずにフェミニストを名乗っている」など書いたがやけど、オラ個人としてはよぉ、自分で使う言葉に関しては、ちゃんと調べたり、自分が思い込みで書いていないかとチェックしたりするのは当たり前と考えとるがやね。これは論文を書くとき、会社で書類を作るときとか当然の話やし、あまりにも粗雑やったら、自分だけやなくて他人に損害を与えてしまうことも考えられるわけやちゃ。
定義付け実践編やちゃ
ということで「定義づけ」をしていくことにするちゃね。
ざっと挙げたのはこんな感じかのう?
箇条書してみたがいど、今回は3つ挙げておくちゃ。
「表現の自由戦士=青識亜論」
最も単純なのは「表現の自由戦士」と自称している人だけを指す言葉にすりゃいいかと思うちゃ。
自らを「表現の自由戦士」と名乗っている人で有名なのは、青識亜論さんぐらいやけど、彼みたいに「火だるまになりながら表現の自由を擁護している」と宣言している人だけを「表現の自由戦士」と定義するのがいいかと思うがやね。
だって、この人のフォロワーであっても、この人と同じように「どんな表現も守る」と宣言しているわけでもないやろう。フォロワーやからといって、その人達は金太郎飴みたいに同じ顔しとるわけやないがやから、単純に「表現の自由戦士」と括ってしまうのは、どう考えてもおかしいやろう。
そのように考えていったらよぉ、まあ「表現の自由戦士=青識亜論」という括りにしてしまうほうが、最も正確性のある定義づけやないかと思うちゃね。
「雑なひとくくり」
そんで考えられることは「対峙する人をひとくくりにする言葉」として考えられるやろう。
第93回 新入社員をひとくくりにして「レッテルを貼る」行為はなぜなくならないのか-社会心理学的視点で素朴な疑問に向き合う④-
https://www.ogis-ri.co.jp/column/kr/315.html
「新入社員」「○○世代」「○○人」「○○課」「男は〜」「女は〜」みたいなもんでよぉ、自分の対峙している存在に対して「雑にひとくくりにする行為」の一つとして考えられるちゃね。
ただよぉ、暇空さんが青識さんを嫌っていてブロックしているようによぉ、左派やったり、フェミニストやったりが雑に「表現の自由戦士」と括ってしまっているものでも、全く考え方が異なっている場合があるちゃね。
こういう雑なひとくくりをしとったら「他の人が発言したことを別人に言ってしまう」という現象が起きてしまうがやね。一個人の発言はその一個人のみが責任を負うものやし、他人の発言を自分が発言するなんてできんもんやけど、そういうのが普通にまかり通ってしまうがやね。
暇空さんを名指しで「表現の自由戦士」と書いて懲戒請求弁明書を書いてしまった中川卓弁護士ちゃ、「暇空さんを青識さんだと思いこんでいる」ようにしか見えんがやけど、まあ「雑なひとくくり」というのちゃ、こういうダラみたいな状況を招いてしまうがやね。やれやれ。
まあ、そのように考えていったら「表現の自由戦士」と頻繁に使ってしまうような人ちゃ、「党派性でしか物事を考えられない人間なんです」と自己紹介しているようなもんだとも捉えられるちゃね。
ただ、そういう人でも集団化してしまったら、自分の周りの人だけが「みんな使っている状態」になってしまうがいちゃ。そうなると党派性に囚われた人達の間で「普通に使っていい言葉」だと思い込んでしまうがやね。
ということでオラにとっては「ダラな左派の間でしか通用しない意味不明ワード」としか感じられんちゃ
言いくるめられた小学生が言う「バーカバーカ」みたいなもの
あとはこんな感じかのう?
すごい酷い言い方になるがいど、Twitterでの議論・レスバなどでよぉ、言い負かされてしまった人が使う言葉ではないかなーと思うちゃね。
Twitterにおるような人なんてもんは、仮に政治家や弁護士、学者であるようなもんでも、ちゃんと物事を調べたりしながらツイートするわけでもなかったりするがでよぉ、肩書の割には「ボキャブラリーが少ない人間」が結構見られるんやないかなーと思うちゃ。
そういう人間になると、相手の発言に対して、的確に答えていくことよりもよぉ、「レッテル貼り」に走ってしまうことがあるがやね。いや「レッテル貼り」という言葉でさえももったいないかのう?
言い負かされた小学生の「バーカバーカ」と同等
今後「表現の自由戦士」と言って罵るような人ちゃ、この程度のものだと捉えていくのがいいのかと思うちゃ。
モナゲ(tipmona)ってなに?
そもそもMonacoinってなに?
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