こんなニュースが飛んできたのう。
「緊縛ニューウェーブ×アジア人文学」というテーマのシンポジウムの一環でよぉ、着物姿の女性が緊縛される…というのが動画で公開されとったがいちゃ。
それを見た人が「女性を軽視している」「これは学問なのか?」という声が上がって、京都大学はこの動画を公開停止したそうやちゃね。
女性を軽視?
ちょっと思ったこと書くがやけど、まず「女性の軽視」に関してやちゃね。
これに関しては、まずは演者の女性の意志が全てやないかのう?その女性が「やります!」というがなら、第三者が声を上げて止めるのは、逆にどうなのか…?という話になってくるちゃね。まずは「女性の意志」がどうであるか?が第一やろう。
それにこのシンポジウムを企画した京都大学の人文学部にも、どういう意図があったのか、その立場を聞いてみる…というプロセスがないと、一方的な決めつけになってしまうかと思うちゃ。
そう考えたら、自分の思った主観だけで「女性軽視だ!」というのちゃ、逆に企画した人や演者さん自身の意志を否定してしまって、違う意味での「女性軽視」が発生するかと思われるちゃ。
これは学問なのか?
第二に「学問なのか?」ということやけど、こればっかしは大衆の感覚で決めつけるのはなかなか難しいかと思うちゃ。
京都大ちゃ、緊縛サークルがあるがですね。
緊縛の文化といっちゃ、江戸時代をモチーフとした時代劇でもたまに見られたりするがいど、これは昔から歴史があって、いろんな縛り方があるようやちゃね。その緊縛術のそれぞれが、現代社会に繋がっていくところはあるみたいやのう。
企画した教授によると「“緊縛”が現在、国内外で現代アートの新潮流として注目を集めている現状を踏まえ、新たな動向に光を当てることが今回のシンポジウムの意図」と説明しとんがやね。
まあ、この辺りはオラみたいなもんには、よぉわかった話やないがやけど、これを大衆が「学問なの?」と食いついてしまうのは、逆に「学問の自由」を侵害することになりかねないちゃね。
不快だからやめさせる?
そんでもって、京都大は動画を公開停止したらしいがやね。
よっぽどの批判があって、炎上気味になってしまったのかと感じられるがいど、オラは公開取りやめにするほどやったもんかと思ってしまうちゃね。
「アート」として捉えるがなら、やはり「表現の自由」は守られるべきやし、これは学問の一環とするがなら「学問の自由」も守られるべきやし、これを公開することによって、彼らも発展していく可能性はあったやろう。
それにある人にとっては「不快」であっても、他の人にとっては「勉強になる」ものなのかもしれんにか。そう考えたら、気分を害した人に対しては一方的に配慮して、知識の共有を求めていた側としては、その機会を潰されたも同然ながやね。
オラやったら「嫌なら見んけど、公開は勝手にしたら?」という感じながいど、こないだのATSUGIの件にしても、やはりそうならない人は多いがやね。
アングラ色を取り込んどるか
こういう緊縛のシンポジウムをやっとったことに対してよぉ、オラは「へぇ〜」と思っていたがいど、人によっては激しい怒りを感じていた人はおるやろう。
ただ、そういうのちゃ、やはり趣味趣向やったり、これまでの取り込んできた文学やったり、音楽やったりと、そういうのの影響は大きいのかもしれんのう。
オラは60年代のニューヨークのサイケデリック・ロックの「ヴェルヴェット・アンダーグラウンド」が好きながいど、彼らは「ドラッグ」「SM」「ゲイ」などを、ニューヨークのアングラを表現しとる音楽を作ってきとるがやね。
そんなオラからしたら「京都大もパンクなことやるのう」と思ったりするところやけど、こういうのを味わう経験がない人やったら、拒絶反応だけが強くなってくるのかもしれんちゃ。
ただ、今は多様性社会ながで、自分の理解できない趣味趣向とかちゃ、やはり「合わんちゃー」と距離を置くようにすることが、最も適した行動やないかと感じられるのう。そうやなかったら、ある人のお気持ちで、ある人は不遇になるわけやしのう。
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