ロックやヒップホップは、反体制的な姿勢が美徳とされるところはあるがいど、大きく3点矛盾しているところがあるがやね
うちでできること
本題に入る前に、まずは「家でできること」を発信しているアーティストから触れることにするちゃ。
安倍首相が乗っかってしまったことで炎上に巻き込まれてしまった星野源のフリー動画「うちで踊ろう」やけど、これはやったもん勝ちやろうね。
別に彼の曲は好きやないけど、こういうのは海外のアーティストも結構やっとるし、これであーだこーだ言われたりするのは、さすがに低次元やなかろうか?
ウクライナの「ジャマラ」もやっとるちゃ
ウクライナでもトップアーティストの「ジャマラ」が2,3日に1回はInstagramでアップしとるがやけど、コロナウイルスの蔓延で自宅におらんなん状況の中で、機転を働かせて、それぞれがそれぞれの取組を行っとるのは、オラは興味深く思えるちゃね。
ちなみにこの曲はクリミアタタール人の強制移住について歌った曲「1944」で、この曲で2016年のユーロビジョンで優勝したがいちゃ。
「ザ・ドアーズ」ロビー・クリーガーのギター教室
あと、たまたま見て嬉しかったのはこれやちゃね。
60年代後半のアメリカの伝説のバンド「ザ・ドアーズ」のギタリスト、ロビー・クリーガーが自らギターレッスンしとる動画がアップされとったがいちゃ。
ファンがこういうのをアップする動画が山程あるがいど、アーティスト自らがやっとるのは面白いところやのう。ドアーズと言えば、フロントマンのジム・モリソンとオルガンのレイ・マンザレクが特徴的やけど、代表曲の「Light My Fire」を始めに、多くの曲を生み出したのが、ギタリストのロビー・クリーガーながやね。オラも嬉しくなったがで、思わずしばらく使っていない「フェンダーストラトキャスターUSA」を引っ張り出してきたじゃ。
74歳になったロビー・クリーガーやけど、やはりかっこいいおじいさんやのう…。毎週アップされる予定やちゃ。
「反体制」という抑圧
さて本題に行くとするちゃ。
そもそもの話、反体制かどうかというより、根本的に「自由」ながやね。
この根底から言ったら、必ずしも「反体制」である必要もないがやし、アーティストがアーティストの思うままに曲を作っていれば良いんやないかのう?
特にこのコロナウイルスのせいで、ライブもできなければ、家にとどまらないといけない時期やからこそ、アーティストたちは機転を働かせて、いろいろやっとるがやけど、今できる「効果的なこと」には違いないちゃ。変に政治主張がどうこうよりも、アーティストとして存在価値を示しているのやなかろうか?
ということでよぉ、アーティストは自らいろいろ考えて、思ったことやればいいと思うがで、オラは「アーティストは反体制であれ」みたいな固定観念こそ、音楽をつまらないものにしていくと思うのう。
60年代のビートルズ、サイケデリック・ロックとか、70年前後のハードロック、プログレッシブ・ロック、パンクにしても、オルタナティブ・ロックにしても、ヒップホップにしても言えるがいど、どれも「既存の固定観念」への反発から生まれたものながやね。
政治的な「反体制」は歴史を辿るとアーティストの伝統芸といえるがいど、その「反体制」にこだわるあまり、タダのポジショントークになってしまっとると感じるちゃね。
まあTwitterで文句言うくらいなら、ニール・ヤングの「Southern Man」に対するアンサーソング「Sweet Home Alabama」を作った、レイナード・スキナードみたいに音楽でやりあえばいいかと思うのう。
ポジショントークなら素人でもできることやろう。アーティストはアーティストでやれる価値を示すべきやし、そこができなかったら、Twitterにおる無數のアカウントと同価値まで下がってしまうやろう。価値を示せないならアーティストやめた方がいいと思うちゃ。
次は反体制イメージのウケの良さについて触れるちゃ。
「反体制」は売れる
反体制の姿勢を前面に出して、実際に政治活動も行ったバンドといっちゃ、90年代のミクスチャーロックを代表する「レイジ・アゲインスト・ザ・マシーン」やちゃね。
ファーストアルバムのジャケットにベトナム戦争時に焼身自殺した僧侶を採用しては、ライブはチェ・ゲバラの旗を掲げてよぉ、星条旗は逆さまにするとか、やることなすこと徹底されとって、歌詞が過激ながでラジオで演奏されないこともあったりと、凄まじいバンドやちゃね。ウッドストック・フェスティバルで星条旗を燃やすとこまでやってのけるしのう。
音楽活動というか、RATMの場合は「闘争」と言い切れるやろう。それぐらいの覚悟を決めたバンドやったがいちゃね。
ただ、2000年にフロントマンのザック・デ・ラ・ロッチャが脱退して、バンドは解散になって、その後は再結成と解散を繰り返しとるちゃね。解散の理由はいろいろ言われるがいど、彼らとしては「反商業主義」を掲げて、覚悟を持って活動してきとったがに、それが商業的に大成功を収めてしまった「矛盾」を抱えてしまったところが、確か理由の1つとされていたのを覚えとるちゃ。
なんのせ本気でやっていようが、パフォーマンスであろうが、「反体制はかっこいい」というのは否定できまい。それが売上に繋がるもんやちゃ。
「反体制」は音楽を隠れ蓑にしている
これはセックス・ピストルズやレイジ・アゲインスト・ザ・マシーンといった、腹を括った人達に当てはまらないことやちゃね。
結局それを言ったらオシマイ…と突っ込まれそうやけど、やっぱし「政治主張が積極的ながなら、あなたが立候補したらどうながけ?」…という話になってしまうがやね。
少なくとも日本の場合は、お笑い芸人や俳優が政治家に転身することはよくあるがいど、アーティストになるとそういった話は極端に少なくなってくるもんやのう。国政やったら元SPEEDの今井絵理子、須藤元気など挙げられるがいど、別に踏み込んでみてもいいと思ってしまうがやね。
頻繁に「アーティストの政治主張」の是非を問われるのは見るがいど、今や語る意味もないやろう。
そもそも「アーティストは政治発言してもいい」し「アーティストだからといって政治発言をしなくてもいい」と考えるオラとしちゃ、「ありorなし」で語られるようなのは、もはや低次元過ぎるがやね。それより主張したからには、ちゃんと中身に踏み込んで、議論を活発にするべきと考えるのう。
オラとしちゃ、仮に反論されたときに「アーティストは主張したらダメ?」で逃げるような人は、あまり良い感じには思えんちゃ。
TVでは討論番組でお笑い芸人が出てきて、素人っぽくあっても主張しとるところを見とるし、中にはYoutubeで発信するもんもおるちゃね。そう思ったら、Twitterで吠えているアーティストこそ、そういう場に出てくるところは本当に見たいところやけど、結局そんなに見ることもないがやね。「言論の場なら言論で勝負する」が当然やと思うがで。
Twitterで吠えているアーティストに対しては、様々な意見が飛んでいるものやけど、彼らは「音楽に政治を持ち込むな」という意見に対して反論しても、「あんたの意見は的外れ」とか「世間を知らない」といった内容に触れた意見に対しては、おそらく意図的に無視しているんやないかと、オラは思えるがやね。
「アーティストは政治主張するな」という論争で炎上させることで、アーティスト自身がちゃんと政治の議論するつもりもないと思えるが、どうやろうか?
そう考えとると、やっぱし「アーティスト」「反体制」という肩書を隠れ蓑にしながら、相手が届かないところから石を投げつけているように見えてしまうわけやちゃ。
「音楽に政治を持ち込むな」も寛大に受け入れるべき
このコラムについてやけど、「音楽と政治」は切っても切れないのは理解できるものやちゃ。ただ、これは「知識をひけらかす」程度のコラムに過ぎない視野狭窄のものやと思うちゃ。
そもそもリスナーにとっての音楽への向き合い方は「千差万別」やちゃね。日常生活から離れるためのツールとして音楽を聴くがであるなら、むしろ「政治性」を廃した音楽の方が心が安らぐものやなかろうか?「音楽と政治」は切っても切り離せないものやけど、音楽との向き合い方は「多様」であることは、抜け落ちているように感じられたのう。
ほんじゃから、「音楽に政治を持ち込むな」というのも、オラは寛大に受け止めてもいいかと思うちゃね。音楽との向き合い方が違う人にとっては、嫌なものや嫌やからのう。漫画に「エッチな表現」を持ち込むのを嫌がるのと大差がないことであるちゃ。
ほんじゃから、「音楽に政治を持ち込むな」みたいのは基本無視が妥当やろう。まあ日本のアーティストは逆に真っ当な反論は無視して、「音楽に政治を持ち込むな」にばかり反応しているように見えるがやけど。
モナゲ(tipmona)ってなに?
そもそもMonacoinってなに?
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