とれぱんふっとぼーる

とれぱん先生がお送りする、ワールドフットボールブログやちゃ

「戦術クラスタ」はリスペクトがないがけ?

さて、昨日の続きやちゃ。

今回は「戦術クラスタ」と「リスペクト」の話やちゃ。

「現場へのリスペクトを」というが主観やないけ?

ちょっこし思っていることながいど、よく「戦術クラスタは現場にリスペクトがないから嫌だ」とか「戦術クラスタはリスペクトを忘れないように」とか言われているのを良く見たりするちゃね…。

ただよぉ、これはオラは突っ込ませていただきたいがやけど…その人に「リスペクトがあるか?」なんて、受け取り側の主観やないけ…ということながやね。

オラみたいのは、別に他人にそこまで興味はあるわけやないし、感情的になったら、多少は激しくなるのは人間の嵯峨やと思っていることもあって、他の人が圧が強くなっていたとしても、オラとしては「ちょっこしキツいけど、その人はその人なりに熱意持っているがやろうね…」と思っていたりするちゃね。

それに「リスペクト」と言ったところで、最も大切かと思うのちゃ、やっぱし現場の心理状況を棚に上げておいてよぉ、第三者判断で「リスペクトの有無」を決めるのもどうかと思っていたりすんがいちゃ。結局その人による主観であって、ただ一個人が機嫌を損ねただけながに「リスペクト」という言葉を使って、事を大きくしとるんやないかと思うちゃね。

どこまでがリスペクトがあって、どこからがリスペクトがない発言ながか?…そこには客観的にちゃんとしたラインがあるわけでもないのは、突っ込まないといけないやろう。

戦術語り自体、リスペクトないのでは?

そんなように考えとったら、オラなんかは他の人が結構いろいろキツイことを言っていたとしても、割と平気な方やったりするちゃね。それに熱中しとるものこそ、多少は言い合いになっていた方が自然かとオラは感じるちゃね。

そういうオラからしたら「リスペクトがない戦術クラスタ」というのは、あまり存在しているようにも感じられないしよぉ、同時にそんなボヤケた括りで言うくらいながなら、堂々と名指しすればいいがに…と思っていたりするのう。

ただよぉ、人によっては抵抗がある人は抵抗があるやろう。指導者でも選手でもないようなもんがよぉ、本とかネットとかでかき集めてきた情報を元によぉ、いろいろと戦術とか語るようなこと自体を、抵抗はある人はおるんやないかのう?

そう考えていたらよぉ、他人の戦術語りに対して、拒絶反応を示すような人間からしたら「素人が戦術を語ること自体=リスペクトがない」にもなりかねないわけやちゃ。

要は「語る側」と「受け取る側」の相性次第であって、全ての人間が納得するような程度というのは、ほぼ存在しない…と言ってもいいやろう。

まあ「死ね」とか「引退しちまえ」とかは、さすがにどうかと思うがいど。

他者に寛大な人にとっては「辞めちまえ」なんていう声は許容範囲になるやろうし、逆に潔癖症の人にとっては「ここで○○すればよかったのになあ」とだけでもカチンとくる人はおるやろう。そういうのを踏まえたら「ツイートを見ている全員に配慮ができた発言」も存在しなけりゃ、同時に「全員が全員怒るようなツイート」も存在しないものやないやろうか?

そう考えたら「リスペクトがない」と発言する人とは、極端な話を言ったら「それはあなたがそう思ったんでしょ。あなたがね!」に過ぎなかったりすんがやね。

ほんじゃから「平気な人は平気」であって「無理な人は無理」
それぐらいの話に過ぎんもんやろう。

指導者の無謬性は前提なが?

「戦術クラスタ」など言われる人に対してよぉ、経験者でない「素人の戦術語り」が忌避されてよぉ、同時に「選手や監督にはリスペクトを」と強く求められる背景について考えてみたらよぉ、やっぱし気付かされるものがあるがいちゃ。

それは「現場と俯瞰して見るのは違うがやから、外から見ている人は口出すもんやない」という風潮やちゃね。

「無謬」という意味は、辞書では「理論。判断などに、誤りがない」という意味ながいど、日本のスポーツ界の特性には「指導者は絶対」というのが根深くて、そういうところに口出しをしてくのは「良くないこと」とされるとこがあるちゃね。

今、Jリーグないし、他のスポーツでもそうやけど、ほとんどの監督やコーチについているのちゃ、まず「選手時代での実績がある」というところが強調されやすいがやね。そういう背景には監督そのものの「カリスマ性」を重視されとって、戦術とか理論的なところは二の次、三の次にされる傾向が強いところにあるがやろう。

今は今で結構変わってきているがいど、いわゆる「素人による戦術語り」には、サッカーに関してはまだまだアレルギーが強いのかと感じされられるちゃね。

戦術ブロガーがコーチになる時代やちゃ

ただよぉ、世界ではおもっしい動きが出てきとるちゃね。

今はボルシア・メンヒェングラートバッハのコーチをしとられる、レネ・マリッチやちゃね。オーストリアのアマチュアチームでプレーしとったがいど、怪我により引退してよぉ、その後は戦術ブロガーを始めたら、プロの監督に見つかって、そっからレッドブル・ザルツブルクの監督になって、ELベスト4に貢献しとったがやね。

本当に変わったキャリアやちゃね。彼のような人物が出てくるのちゃ、今、世界でサッカーの戦術ブロガーやっている人達にとっちゃ、夢を見せているといえるんやなかろうか?その道で突き詰めた人間が、トップレベルの現場に導かれるのちゃ、

欧州サッカーを見てとってよぉ、本当に興味深いと感じさせられるのちゃ、選手時代の経歴とかに問われない指導者の人選が多かったりよぉ、他のスポーツやったり、心理学、コンピュターの導入など「使えるものはどんどん使っていこう」というのが盛んなところやのう。そういうのの連続がレネ・マリッチのような人物を抜擢する土壌にもなっとんがいちゃ。

日本では「戦術クラスタと現場は乖離している」とか言って、距離を置く傾向鬼あるやろうけど、欧州では乖離していることをポジティブに見て「使えるもの」という認識があると思ったじゃ。

リスペクトされるのは現場だけやないちゃ

4年前くらいに実際に会ったことある結城康平氏のツイートながいど、欧州ってこういう土壌ながやろうと感じさせられるちゃね。

こういうのを見ているとよぉ、立場が現場におる監督や選手であろうとよぉ、全く別のスポーツの人間であってもよぉ、学術的な分野の人間であってもよぉ、欧州は「立場がどうであろうと良いものは良い。取り入れていこう」という学びの意欲が強いのが本当に感じさせられるのう。

まさに上で書いた「指導者は絶対である」みたいなのとは、正反対ながやね。現場とブロガー目線では、もちろん乖離しとるのは当然ながいど、そういうのを「現場にいない奴は口出すな」と「立場が違う人の意見は貴重だ」というので変わっていくがやろう。

戦術ブロガーにしても「立場が違うからリスペクトする」がやね。

「誰が言ったか」「何を言ったか」

「リスペクト」というところから、長々と書いてきたがいど、やっぱし繋がってくるのちゃ、こういうところにあるがやろう。

「指導者・選手などをリスペクトする」

「貴重な意見を言う人をリスペクトする」

今回の考察を踏まえて出てきたのは、この2つは「リスペクト」という同じ言葉で表記されるがいど、これが大きな違いがある…ということやちゃね。

前者の「リスペクト」というのちゃ、高名な人物をリスペクトする…というところに近いやろう。極端な言い方をすれば「個人崇拝」とでも捉えられるちゃね。「現場にいる人は特別なんだよ!おめーさどまとは違うがよ!」みたいなところではあるちゃね。ある意味、独裁主義的な側面が強いちゃね。

後者の「リスペクト」ちゃ、そこにいる「人」やなくて、その人が発する「何を言ったか」というところながやね。それは独裁主義的なのとは正反対の「民主主義的」とも言えるやろう。こういうのちゃ、まとめづらい側面があるがやし、カリスマ性の否定になる一面があるがいど、物事を進化させていくには「誰が言おうと使えるものは使う」もんやちゃね。そこには立場を超えた「リスペクト」がなければ成立せんちゃね。

みんな好きに発信すればいいちゃ

まあ、長くなってしまったがで、そろそろまとめようと思うがいど、結局の所は、戦術語りが苦手な人は一定数はおるやろうし、同時に強烈なアレルギーを持っている人はおるやろう。

ただよぉ、普段からピッチ内を分析されている「戦術クラスタ」と呼ばれる方々ちゃ、発信に躊躇することはないしよぉ、同時に彼らのことを大切に思っている方々もおる…というのを改めて言っておきたいところやちゃね。

人間やから、感情的になって、激しい物言いになることもあるやろう。ほんじゃけど、そこで不快感を示す人はその人に対する相性の問題でもあるがで、反応に対して神経質になることもないやろう。

それに「リスペクト」という言葉を使ってくる人がおるがなら、オラのこの記事を見るなりして、自分なりに整理したり、落ち着かせたしていただければ…と思って、ここで終わらせていただくちゃ。

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