現代人は全員「歴史修正主義者」やなかろうか?

昨日、オラのところにリプをくださった聴覚評論家の中川雅文さんのツイートを見て、ハッと思わされたことがあったがやね。

昨日のツイートで、オラのリプ欄にちょうど入ってきた聴覚評論家の中川雅文さんという方ながいど、ためになるツイートやと思ったがで、ブログをメモ代わりとして、記しておくことにするちゃね。

歴史との向き合い方の話やちゃね。中川さんのツイートはよく押さえているなあとオラは思ったがやね。

「すべてが記述されていることではない」
「その時代に残された意味と今の時代の意味が同じとは限らない」
「焚書からくぐり抜けてきた一部に過ぎない」
「連綿と過去に繋がりつつかけた人、勝者の事実だけが歴史として残りやすい」
「後世の人がひるがえすこともある」
「その時代、その時代ごとの空気感つまり多数決が決めることもある」

そうながやね。歴史の出来事を見る上では、こういう視点を持っているべきやとオラも感じるところやちゃね。結局はすべてを記述されとることでもないがやし、昔の意味と今の意味が異なることを前提で考えるべきやろう。

そう思ったらよぉ、歴史問題とかで、いっつもキンキンしとるようなもんちゃ、結構おったりするがいど、実際それはどうなんかと思ってしまうちゃね。

道真公を悪いものとして見ているつもりでツイートしたわけやないがやけど、道真公を神様として祀られているのちゃ、死後に京で不吉な事件が起きたこともあって、いろいろおっかしなことになってたりしたことがきっかけながやね。

歴史秘話ヒストリアで見てて、道真公は美形な俳優さんが演じられとるし、えらいキレイになった印象が強いがやけど、それは昔から今の人々にまで、作られてきたもんでもあるとは否定はできないかと思ったがやね。

中川雅文さんが言う通りで、今に伝えられている歴史というのちゃ、全てを映し出しているものというのではなくて、結構限られたもんやったりするがで、実際は違ったもんであったりするやろうし、そもそも現代と平安時代やと、あらゆる常識も異なっとるだけに、むしろ決めつけるような解釈は無理があるといえるやろう。

ほんじゃから、現代人の解釈で歴史を見ること自体が「歴史修正」といえるもんであると言えるやろう。

そういう意味やと、やはり歴史との向き合いちゃ、変に肩肘を張るようなこともせんと、あくまでも「その時代その時代の人たちが思い描く物語である」というぐらいのスタンスでいるのが一番良い向き合い方やと思ったじゃ。

これは平安期とかだけやなくて、近代史にも同じかと思うちゃ。

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