最近「トーンポリシング」という言葉をよく聞くようになったがやね。
トーンポリシングは論点ずらしになるちゃ
「トーンポリシング」というのちゃ、感情的になって訴えている人に対してよぉ、「落ち着けま」「普通に言えよ」とか言う行為として見られとるがやね。
感情的になって発言すること自体を否定したり、冷笑的に見られるのちゃ、確かに気持ちよくないことやし、議論しとる内容とは別のことに論点をすり替えしようとするのは、確かに良くない…というのは間違いないやろう。
「言い方がなってないからといって、議論を拒否するなま!」ということやちゃね。こういう点に関しては、オラは「トーンポリシング批判」は起きて然るべきやろう。
文章を書く身分としては…
ただ、オラ自身が文章を書く立場としてはよぉ、やっぱし「書き方」は十分に考慮しながら、誤解をされないようには考えるがで、人が「言い方が…」という指摘に関しては、まあ間違えとらんかなーとは思ったりするのう。
感情をまくしたてるような言い方やと、みんながみんな聞いてくれるとは限らんがやし、それは時と場合によって異なるかと感じるがやね。人によっては感情をまくし立てた方がいい場合もあるがいど、必ずしも全員が全員そういうわけでもないからのう。そこは臨機応変に使いこなそう…というのがオラの考え方やったりするちゃね。
自分で主張したいことは、なるべく脱線させないように表現していくのを考えたら、やっぱし一つ一つの日本語の使い方やったり、表現やったりは「ちゃんと伝わるのか?」を考えないと、自分に跳ね返ってくるという認識ながで、トーンポリシングされても「あーこう表現すればいかったかな…」と思ってしまうがいちゃ。
討論と対話の違い
上記の通り、オラは「トーンポリシング」への批判に関しては、あくまでも「論点ずらし」という意味以外で使われるべきではないと思うがやね。
しっかりとした議論をしたいときにはよぉ、双方が落ち着いたトーンで話するのがやりやすいがなら、やっぱしトーンは調整した方がいいと考えるちゃ。お互いに論点をすり合わせるつもりであるがなら、適したトーンでお互いが合わせる方が良いと言えるがやなかろうか?
つまり「トーンポリシング」を批判することによって、声の大きさ勝負になってしまっては本末転倒やないかとオラは思うがいちゃ。
これはFacebookでオラの知人が教えてくださったものやけど、これはハッと思わせるもんがあったのう。
根本的にTwitterとか見ているとよぉ、左(討論)はできたとしても、右(対話)はほとんどできていないのが実情やないかと思うのう。もしできていたとしても意見が近い者同士であってよぉ、意見が正反対のもんやと戦争状態になってしまうがやね。
普段から強い口調のもんが「トーンポリシングだ!」といって噛み付いているのを見ると、オラは「なんだかなー」と呆れさせられることがあるがいど、これは穏健で対話を重視する方々を封殺してしまわないかと思えるちゃ。
「声の大きさ勝負」になってしまったら、結局は分断しか産まんがいちゃ。
方言批判はトーンポリシングやにか
最後におまけに一つ触れておきたいことがあるちゃ。
これはトーンポリシングやちゃね。
別にオラの言うことが分からんがなら「分からん」でオラは良いがいど、どうも旗色が悪くなってきたら、すぐに「方言がわかりません」とそこに食いついてしまう人がおるがやね…。方言に食いついちゃって、つい論点をずらしに来とるにかー。
いやぁ…なんで途中から「分からん」になるがやろう。
分からんがなら「最初から」やないがけ…。
モナゲ(tipmona)ってなに?
そもそもMonacoinってなに?
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